足跡(寺社)318・秀明寺(2021.4.10)

大田区萩中に集まった7カ寺訪問を主目的として出かけた2021年4月10日のこと……

いつも「この辺りだろう」とほぼヤマ感で歩いたが、電柱に案内矢印があると助かる。

路地を入ると参道入り口……昔々はすべて境内だったのだろう。

秀明寺山門……(大田区本羽田1-3-11)

山門前左……石碑の文字は「聖徳太子道」と彫られているようだ。「道」とあるのは、おそらく秀明寺への道しるべとして、どこかに置かれていたのだろう。
弘法大師空海 ご誕生1250年」のポスターがあった。弘法大師空海さまのご誕生1250年は、来る令和5年(2023年)に迎えることになっていた。当時の日記に『総本山智積院、行きたいな~ あのポスターも欲しいな~ コロナは終息しているだろうか?』と書いていたが、私にとって23年はまだまだ予断を許す状況ではなかった。

祠に鎮座しておられるこの方は、16歳の聖徳太子と推察する。

山門扁額にあるとおり山号は「用明山」で、玉川八十八ヶ所霊場第八十三番札所となっている真言宗智山派の寺院。

秀明寺本堂……第95代花園天皇(在位1308~1318)が聖徳太子16歳の像を刻ませ、侍臣の秀明に有縁の地を求めるべく浪花の海に投じさせたところ、武蔵国羽田浦に流着したと。見つけた浦人はこれをまつり供養していたが、天皇の命を受けた秀明が尋ね歩き、この地に至った際にめぐり逢うことが出来たので一宇を建立したのが始まりとのこと。
 蛇足ながら、中国で恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から密教の奥義を伝授された弘法大師空海は、密教法具「三鈷杵(さんこしょ)」を授与されるが、空海は帰国する時に「密教を広めるためにふさわしい地を示したまえ」と願いを込め、出港する港から「三鈷杵」を東の空に向けて投げる。帰国した空海は、修禅道場にふさわしい地を探す旅に出るのだが、高野山の松の枝にひっかかっている「三鈷杵」を発見する。ちなみに「三鈷の松」の葉には三つ葉もあって「これを拾うと幸せになれる」という民間信仰も生まれたとされる。いつかはきちんと行ってみたい高野山だが、聖徳太子像を海に流した花園天皇は、空海の真似をしたのかもしれない。
 後に出家されて一僧侶としての生活を送られた花園天皇の人柄は「主として仏教のご信仰によって得られたことが多いと思われる」と歴史学者・辻善之助氏は言っておられるから、私の推測はあながち間違えではないかもしれない。

本堂扁額……「太子堂」とも呼ばれる秀明寺。

本尊は聖徳太子像だが「現在の聖徳太子像は、嘉永年間(1848年~1855年)に仏師の石川源永が制作したものです。」と墓石・仏壇の朋友のHPに書かれていた。

太子堂は平成時代の再建でしょうかしら。

いつもこんなことをして遊んできた私……

庫裏方向にある松も姿が良かった。

本堂前から……小さくて見えないだろうが、右のベンチ前に灰皿があったのでありがたく一服させていただいた。南無大師遍照金剛
 ちなみに、当時の日記には「山門の向こうは蒲田女子高等学校」と書いていたが、昨年4月に共学化し、校名も「羽田国際高等学校」に改称されたようだ。

失礼しようと思ったが……

三界萬霊塔をパチリ……半跏思惟像もおられたから。

ついでに最後の力を振り絞って、山門の鬼瓦

京急糀谷駅前……本当は歩き疲れたからだったが、京急蒲田駅ホームに流れる「夢で逢えたら」を聞いてみようなどと言い訳を作り、帰りは電車に乗ることにした。確かにメロディーは耳に出来たが、発車音かと思っていたのにアナウンスの合間に流しているようだった。なんだかピンとこなかったが、一応確認できたので良しとした。人通りがまばらなコロナ禍のことだった。

今日の「My First JUGEM」は……『また寝不足』