渋谷区や港区なんてところを散歩していたから、世田谷区を歩いてみようと上馬から弦巻を抜けて桜なんてところを歩き、宮坂の地を訪問した2020年11月10日……
乗泉寺別院を後にして東京都道423号を歩く。渋谷経堂線と言うように、600mほど先には小田急線の経堂駅。学生時代はご学友宅にお邪魔したが、今はどうしているだろう。
曹洞宗寺院「常徳院」参道入り口(世田谷区宮坂2-1-11)……掲示板に「山門不孝」示寂(じじゃく)と善敬和尚さんの訃報が記されていた。合掌……南無釈迦牟尼仏
左の石には「本尊十一面観世音」と彫られている。
石碑の後ろに六地蔵……墓地の入り口の配されることが多いのだが。
参道を進むと……
「常徳院山門」……開創時は「浄徳院」であったらしい。
天保2年(1831年)の石碑だったが、敷石の工事を行ったのか。
いつものショットだが、山門扁額は山号の「観谷山」とあった。
一礼して山門をくぐると……
右手に鐘楼……
「地蔵菩薩」……落慶記念とあるが、本堂、鐘楼、山門などいずれかは不明。造立年月は読めるかと思ったらダメだった。ちゃんと撮って来なければと反省。
本堂への参道左側……
右の石碑には「白山妙理大権修利菩薩」とある。
「入宋の旅を控えた曹洞宗の高祖・道元禅師が、白山妙理大権現に祈った」とか「道元禅師が宋から帰える前夜、白山妙理大権現が現れて禅の法典の筆写を助けてくれたから一夜で書き写せた」などと伝えられている。また、初期曹洞宗の多くの寺院の前身は白山修験道の坊舎ともあり、いずれにしても道元禅師のみならず白山信仰は曹洞宗にとって関りが深いと勝手に推察する。従って祠は白山神社と言うことだろう。
ちなみに、常徳院のご本尊である十一面観音は白山妙理権現の本地仏だとのこと。(間違っていたらごめんなさい。)
※ 権化(ごんげ)とは、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説で、仏や菩薩が仮(権)に姿を変えて日本の神として現れること。または、その神。要するに、白山妙理大権現は十一面観音菩薩が人々を救済するために姿を変えて登場したということ。本地垂迹説の流行は平安時代初期から始まったようだ。
「敬徳観音」……初耳の観音様だった。
1400年代後半に浄徳院として現在の世田谷区船橋に開創され、現地・宮坂への移転に伴い常徳院と改めたようだ。
「常徳院本堂」……なんともモダンな照明器具だった。(その写真も撮ったが、今日は割愛)
本堂左手……
手水盤の向こうに「39世大仁義一大和尚之像」……
客殿だろうか……
渡り廊下で本堂と繋がっていて、後方が墓地のようだった。
静かな佇まい……小鳥のさえずり以外は無音だった。
15時03分……陽はずいぶん傾いていた。
知人との約束の時刻まで残り1時間となっていたので、出発時は訪問する予定でいた経堂駅前にある「福昌寺」は断念して撤収モードに切り替えた私。
世田谷区のHPに『現在、小田急線の経堂駅から少し南側の地には、福昌寺というお寺がありますが、この寺は正しくは「経堂山福昌寺」といい、江戸時代の初め頃に建てられた古いお寺です。当時この地を与えられていた松原土佐守弥右衛門という人が、自分の広い屋敷の中にお坊さんを迎えて開基したものだと言われています。
この松原土佐守という人は、徳川幕府のお抱えの医者(御殿医)として、中国から迎えられ日本に帰化した人ですが、医者なので当然たくさんの本を持っていました。このころ人々は、ほとんど字の読み書きができなかったので、本といえば、お経の本だと思い込んだということです。それに自分の屋敷内にお堂を建てたので、近くの人はこれを経堂と呼ぶようになりました。まもなく、松原氏が常徳院から玄浦和尚を迎えて寺を建て、この経堂の名をとって「経堂山福昌寺」と名づけたのは寛永3年(1626年)のことでした。現在、このあたりには松原土佐守の子孫やその関係者など、松原姓の人が多く住んでいます。』とあり、常徳院とつながりのある福昌寺をパスしたことは今も心残りだ。そのうちに行かれたら良いなと改めて思った。
お掃除小僧さん……『掃いても掃いても また汚れるこころの掃除はだれがする? 自分でするしかないんだよ 南無釈迦牟尼仏 南無釈迦牟尼仏』なんとも心が痛い。
常徳院から経堂駅とは反対方向にもどり、世田谷線の踏切を渡ってそのまま東へ歩くと、町名は宮坂から豪徳寺になっていた。
ちなみに、この丸長さんの480円のラーメン食べたかった。バイクの向こうに岡持ち(おかもち)があるから出前もやっている。近所だったら良かったのにな~と思った私だ。物価高の折、ラーメンはいくらになったかと食べログを見たら、昨年11月3日登録のメニューに500円とあった。半ちゃんラーメンも810円。ありがたや、これぞ町中華。
私が立っているのは都道423号渋谷経堂線だが、都道は三差路を狭い右方向に続く。写真の左端に……
「地蔵堂」がある。私は左(西)から歩いてきたが、右(北)にクランクしている道を「滝坂道」と言うらしい。江戸時代に甲州街道が開設される以前は、江戸と府中を結ぶ街道であったと。
世田谷城主吉良氏にとっても重要な街道だったが、城防御の観点からクランクさせたようだ。この場所の南側にあった世田谷城に、直線で攻め込まれることを嫌ったのだろう。地蔵尊は、車に突っ込まれても平気なように頑丈にガードされていた。
地蔵堂の後方だけ屏風のように残っている塀は、かつてあった住宅のものと思われる。家は建て替えられたようだが、小堂と共に現在も以前の面影を残している。
地蔵尊造立は宝暦6年(1756年)……堂宇の右手には小さな馬頭観音があった。世田谷区ではあちこちで馬頭観音にお目にかかる。
「世田谷城址公園」前を通過……以前(2017年8月19日)訪問したし、帰りを急いでいたので踏み込むことはしなかったが、この日の訪問先は吉良氏が関係する場所が多かった。さすが世田谷だ。
初代吉良氏が南北朝の頃(1336~1392年)、関東管領・足利基氏から戦の手柄によって武蔵国世田谷領をもらいうけて築城した世田谷城。以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も運命を共にしたために廃城となりました。…たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ…
烏山川緑道を横切り、急いでいるのに遮断器に足踏み。世田谷線上町駅を通過した後、更に加速して超超高速参勤交代状態で帰途に着いたようだ。あの頃はとても元気だった。
今日の「My First JUGEM」は……『私にとっての苦行』
